どんどん勝利して実績や知名度を上げるだけが、学童野球の監督ではありません。世に知れずとも、地元の子どもたちに無私の愛を捧げ、野球の火を灯し続ける監督が新潟県にいました。監督リレートークは、“女子学童野球の母”とも言える要人を介して女子選抜チームの監督、そして無名なる偉人へとバトンがつながりました。
(取材・構成=大久保克哉)
〈経由〉
[BBガールズ普及員会代表]頓所理加
とんしょ・りか●1975年、埼玉県生まれ。小学生から女子ソフトボールを始めて、捕手一筋。伊奈学園総合高では、八番・捕手で東日本大会にも出場した。短大を卒業後、結婚を機に新潟県へ転居。2004年から10年間は学童の笹山ライオンズでコーチ。2008年夏に学童女子のフレンドシップマッチを県下で初開催、これを機にBBガールズ普及員会を立ち上げて代表に。学童女子選抜・新潟BBガールズで現在もコーチを務めるほか、2013年から4年間は開志学園高の女子硬式野球部、2020年からはNPBガールズトーナメントに出場する新潟トキめきガールズでも指導。現在は全軟連理事、新潟県女子野球連盟会長など複数の組織で要職にある
いわはし・ほまれ●1967年、新潟県生まれ。豊栄市(現・新潟市)立木崎小の5年生から野球を始め、木崎中の軟式野球部を通じて外野手。新発田商高へ進み、3年時は四番・左翼で活躍。長男が入部した木崎イーグルスでコーチとなり、三男が4年生になった代から3年間は学年監督を務めた。県下の女子野球を盛り上げるべく、2008年に発足したBBガールズ普及委員会で、当初から普及振興活動に従事。女子選抜チームの新潟BBガールズにもスタッフとして帯同し、2014年から監督を務める。IBA(少年軟式野球国際交流協会)主催の学童女子選抜大会で、2016年に優勝。同大会準優勝は、雨天順延で途中棄権した2023年を含めて4回を数える
[新潟・新潟BBガールズ]岩橋 誉
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寺尾 孝
[新潟・北がくジュニア]
てらお・たかし●1965年、新潟県生まれ。豊栄市(現・新潟市)立木崎中の軟式野球部で外野手、豊栄高では一番・遊撃手としてプレー。結婚後に建築士に。近所の妻の母校・笹山小にあった野球部復活の待望論から、2003年に笹山ライオンズを立ち上げて2013年まで監督。野球人口の減少を憂いて2014年4月には、新潟市北区で所属やチームを問わない3年生以下の野球教室「北がくキッズ」を開校。この2024年4月に、同教室を母体としたクラブチーム「北がくジュニア」を創設して監督も務める。2011年から23年までは北区の6年生選抜チームの監督も務めたほか、県下の女子学童のBBガールズ普及員会や同選抜・新潟BBガールズの立ち上げや運営にも尽力している
【経由/頓所理加】
「ホントにすごいね、やめないねぇ!」
五泉フェニックスの吉川(浩史監督)さんが、そのように声を掛けてくれたのは、私が学童チーム(笹山ライオンズ)のコーチになって何年かしてからのこと。意地悪でも嫌味でもなくて、女だからたいへんなこともあるだろうけど、このまま続けてね! という意味の激励だったと思います。それが当時、どれだけうれしかったことか。
今では信じられないかもしれませんが、20年ほど前は、時代も野球界も「男尊女卑」がまだまだ色濃くありました。女性の指導者なんて皆無。ほとんど認めてもらえないので、私は隠れるような感じで活動していました。吉川さんはそんな私を見つけては、同じ野球人としていつも背中を押してくれる。そういう指導者はホントにごく稀でした。
新潟BBガールズの岩橋監督(中央)と頓所コーチ(右端)
活動地域は離れているし、頻繁に交流しているわけでもありませんでした。でも、吉川さんは私や女子野球のことも応援してくれている。それが、ふとしたタイミングで感じられるんです。
今回のこの企画コーナーで、岩橋(誉監督)と私にバトンを托してくれたのもそう。県外にも顔が利いて広く交流されている吉川さんなら、もっと実績も知名度もある全国区の監督を紹介することが、いくらでもできたはずなんです。
「自分が野球をやりたくて」(頓所)、笹山ライオンズのコーチに。幼い我が子たちには内緒で始めたが、やがて娘も息子も自ら入部することに
また、私たち自身も荷が重すぎるので当初はお断りするつもりでした。ところが、吉川さんは押しの一手で、私たちにこうまで言ってくれました。
「ずっと女子野球のためにがんばってきた活動を、広く知ってもらうにはここしかない! 頓所さんたちにこそ、陽が当たるべき。だからどうしても、オレはバトンをつなぎたい!」
そして改めて、誌面を通じてあのようなメッセージもいただけて、めちゃめちゃ感動しました。また編集部にも掛け合って、私にだけではなく、女子野球をともに支え続けてくれている監督の岩橋にバトンをつないでくれたこと。彼に光を充ててくれたことに感謝しています。
「女でも関係ないよ!」と
自分はなぜ、女に生まれてしまったのだろう――子どもから大人になるまでの間、私の中にはそういうネガティブな感情がありました。女だからというだけで、大好きな野球ができないことが、その理由です。
埼玉県で生まれ育った頓所コーチ。女子野球が存在しなかった時代ゆえ、小・中・高とソフトボールでプレーした
そんな私に「女でも関係ないよ、一緒に野球やろうよ!」と初めて言ってくれた人。それが、岩橋と私からご紹介する寺尾(孝監督)さんです。吉川さんと同じく、当初から性別に関係なく野球人として私に接してくれる、希少な人であり、最大の恩人です。
高校までソフトボールをしてきた私は卒業後に結婚し、主人の地元の新潟県に転居してやがて二児の母に。それでも野球が諦めきれず、どこかでプレーできないかとアクションを起こしましたが、誰にも相手にされず…。
たまたま28歳のときに(2004年)、自宅の近所に笹山ライオンズという学童チームができて、「ウチでコーチをやってよ!」と熱く真剣に誘ってくれたのが創設者兼監督の寺尾さんでした。そこから約10年間、ケンカも仲違いもなく、一緒に子どもたちを指導してきました。
新潟県下の女子学童が集う夏の一大イベント「フレンドシップマッチ」。これが選抜チーム・BBガールズの引き金に。写真は10周年の2017年
中でも忘れられないのは、子どものようにピュアで優しい寺尾さんが信じられないほど激怒した事件。「何でアイツ、女のくせにグラウンドに入っているの!?」という感じの中傷を、私が外部から集中して受けたことがありました。自分の存在がチームにマイナスになるのなら身を引くべきと考えて、寺尾さんに辞意を伝えました。
すると、ものすごい剣幕で「そんなこと言ったヤツに、オレがこれから正しに行ってやる!」と。そして私に対しては「オレたちは仲間だから。頓所コーチのいないベンチなんてありえないし、これからも胸を張ってグラウンドに立ってほしい」と言ってくれたのです。
新潟BBガールズは女子学童野球の先駆け。夏の全国大会NPBガールズトーナメントよりも歴史が長い
新潟市も少子高齢化が進んでおり、笹山ライオンズは徐々に人数が減ってきて、2013年限りで活動を終了。その5年ほど前から、私が並行して始めていた女子野球の普及活動にも、寺尾さんは大いに力を貸してくれていました。そしてライオンズの解散時に「ボクはこの地元から野球の火を消さないようにがんばるし、女子野球は頓所コーチを必要としている。これからはお互いの道で、それぞれがんばろう!」と。
そして寺尾さんは、北区(新潟市)の1年生から3年生までを対象にした野球教室『北がくキッズ』を始められた。「4年生からは自分の好きなチームへ送り出してあげるから、それまではオレが面倒をみる!」と。自分には何の光も当たらないその活動を、地道に10年も続けられたのはホントに驚きで、改めて頭が下がるばかり。
BBガールズ普及員会代表、同チームのコーチのほか、現在は全軟連理事など複数の要職にある
私はまた女性でありながら、ここまで約20年も野球に関わることができて、良かったなと今は思っています。まさか、自分がこんなに幸せな考え方になるなんて、子どものころは思いもしませんでした。すべては寺尾さんのおかげ。面と向かっては恥ずかしくてなかなか言えないのですが、こうお伝えしたいです。
めちゃめちゃ感謝してるし、尊敬しています!
【岩橋誉】
頓所と私からご紹介する寺尾さんは、小・中と私の1学年上の先輩にあたります。
その寺尾さんの声と、小さな子どもたちの声が、週末になると私の自宅にも聞こえてきます。彼が小学校の校庭でやっている野球教室(※2024年3月で10年間の同教室は終了、現在はクラブチームとして活動)。
とても活気があって、寺尾さんの声もまた弾んでいて楽しそう。この人はホントに子どもが好きで、子どもに野球を教えるのも好きなんだなと、微笑ましい気持ちになります。子どものような大人。子どもが子どもを教えているというのか、童心をもった監督。それが寺尾さんです。
岩橋監督(左)は木崎イーグルスのコーチ・監督を経て新潟BBガールズへ。右は頓所コーチ
フレンドリーでいて、熱い野球哲学や指導哲学もあって、2人でお酒を飲んでは議論が過熱して、言い合いになったりしたことも(笑)。でも決して根にもつこともなく、まるで憎めない愛せる人。
親しい関係になったのは、お互いに学童チームの指導者になってからでした。寺尾さんが監督をしていた笹山ライオンズと、私がコーチ・監督をしていた木崎イーグルスとは近隣同士で、新チームは必ず最初に試合をする仲でした。
私にとって初めてのその練習試合で驚いたのは、タイムを取ってマウンドに選手を集めた寺尾さんが、自ら片ヒザを着いて子どもと同じ目線になってアドバイスをしたこと。今でこそ珍しくなりましたけど、監督と選手との距離感がゼロという感じで、寺尾さんは笑顔で激励しながら、子どもたちを楽しませていました。そういう度量ももった指導者です。
2016年、IBA主催の学童女子選抜大会で優勝に導く
その寺尾さんから「頓所コーチがやりたいと言っている、女子野球を手伝ってくれないか」と誘いを受けたのが2008年。よくわからないけど、おままごと程度かなと思って軽い気持ちで引き受けて、気付けばもう15年以上です(笑)。
洞察力も長けた智将
私をその気にさせたのは、女子選手のお父さんお母さんたちの、すごい熱量と謝意からでした。頓所が代表を務めるBBガールズは、女子選抜チームで、活動期間は実質3カ月です。毎年9月に選考会をして10月に合宿をして、10月末から11月にかけて2つの大会に参加。そして新年の1月に解団式があります。
私は6年目までは帯同スタッフで、グラウンドでの指導はたまにという感じ。移動中はバスガイドのようなことをしたり、雰囲気を盛り上げる役にあえて徹していました。
女子学童は野球のレベルも意識も、この10年で劇的に向上。数も増え続けている
各所属チームから選手を預かっていて、それも選抜チームなので能力は高い。でも、短い期間に少し練習をしたくらいでは、一枚岩で戦える集団にはなかなかなれないのではないか。指導陣とスタッフにはそういう懸念もあり、2日間の合宿をしてみました。すると、保護者も含めて自然に一体感が生まれるように。この合宿は今も続いています。
7年目から私は監督になりましたが、練習でもノックなどはコーチ陣に任せます。私はその間に、保護者たちと積極的にコミュニケーションを取るように。通年で週末に活動する普通のチームではないので、監督の私が少しでも早く選手個々を理解する必要があるからです。そしてそれができるほど、信頼関係を築けて物事が円滑に進みやすくなる、という経験則もできました。
頓所がよく言うのは「BBガールズは、良い選手を寄せ集めて調子に乗らせるのが目的ではない。士気を高めて全国大会に真剣に臨むことで、広がりも可能性も生まれる」と。そういう見本にもなるチームに胸を借りたいということで、吉川監督の五泉フェニックスに練習試合を申し込み、快諾をいただいて毎年の恒例になりました。
試合中の吉川監督がすごいのは、選手の主体性に任せているだけに見えて、洞察力や観察眼が鋭いんです。プレーはもちろん、こちらのベンチの様子やアドバイスなどもすべて冷静に見極めた上で判断や指示をしている。自分たちの選手に少しでもアドバンテージを与えてやるために、監督も懸命に戦っている。そういう勝負師ですね。
おかげさまで、今では所属チームでキャプテンやエースになったり、クリーンアップを打つなど、中軸となる女子選手が多くなりました。男子が減っていることも一因だと思いますが、女子の野球レベルと意識は10年前より確実に高くなっています。
そういう選手たちが意欲的に集まってきてくれて、みんなで同じベクトルで高い目標を持った中で、監督をさせてもらえている。とても光栄に思っています。
女子野球の普及活動はまだ道半ばですが、今に至るだけでも頓所は組織を引っ張りながら、自らも広告塔になって世間や野球界を動かそうといつも懸命。また寺尾さんは裏方に徹しながら、BBガールズが軌道に乗るまでは何度もミーティングを開いてくれたり、あちこちに根回しなどもしてくれたり。今でも夏のイベント(フレンドシップマッチ)には顔を出して手伝ってくれます。
体が資本ですから、自分のことも労わりながら、これからも今までと変わらずに新潟の野球界を盛り上げていきましょう! 寺尾さんへはそのようにお伝えしたいです。